前回、できないと嫌になりすぐ投げ出してしまう。そうしないためには
完璧にできない自分を認める=「かまわないとして受け入れる」
まずはこれを乗り越えなければならないという結論に達しました。
これは、育児にも関わってきそうだなと思いました。 自分でできないくせに、子どもがやらなければならないことをきちんとやらないと、イライラしてきてしまうのにも関係あるのかなと思いました。
より良くするために頑張るのは素敵なことだと思っています。
目標をもし達成できなかったとしても、今より良い状態に近づこうと頑張ることは良いと思うし 頑張れる人って素敵だし、努力は無駄にならないと思っています。
一方でできない自分を受け入れてあげなさい、認めてあげなさいという。 できない自分を受け入れるけど もっと良くなろうとがんばる自分・・ ダメな自分を受け入れるということは 今の自分を良しとすることのはず。 でも今の自分は嫌なんだ。 自分で考えると全くうまく考えられず、 いつもここで思考がストップしていました。
話が変わりますが、 少し前に私の父が倒れました。
パニック状態の母から電話があり、わけもわからず病院に行くとICUで体中が管につながれている父の姿がありました。
倒れる直前まで元気に運動していたのに、、、 先生の話を聞くと、
「助かる確率は半々、・・半分よりも少ないかもしれない
もし助かったとしても植物状態になる可能性が高いです」
もう二度と父が「へへへ・・」と笑う顔は見られないのか・・・?
人間いつかは死ぬものだとわかっているけど、とにかく助かって、何とか生きていてほしいと心から思いました。 (おかげさまで今はなんとか日常生活を送っています、 こちらはまた別途機会があれば書こうと思います)
そのことを思い出した時に 父がどんな状態でもいいから生きていてほしい、 うまく話せなくても、もう一度へへへ・・って笑ってほしいと思いました。
お酒を控える、塩分を控えると言ってもなかなかできなかった父。
本を読んでも結局寝てしまってなかなかページが進まない父。
でもそれがなんだっていうのか。 「もーお醤油かけすぎたらダメだよ」と言いながら、
それができなくても私にとって父の存在はゆるぎません。
そう考えたら、今ここに存在してくれているだけで価値があるんだと気づくことができました。
子供にも些細なことでイライラして怒ってしまうことがたくさんあります。
でも、勉強が得意じゃなくても、 友達と仲良くできなくても、 スポーツが苦手でも、出さなきゃいけないプリントを出さなくても そこにいてくれるだけで私にとって価値があるなと思います。
毎日元気に笑って過ごしてほしいと思うけれど、
嫌なことがあって泣いているときも
イライラして八つ当たりしてくるときも、
子どもの存在の大切さは変わりません。
そして、もしかして私も誰かにとってそういう存在なのかもしれないと思いました。
私がだらけていて、家が片付けられなくて どんなにダサい恰好をしていようとも 家族だけはそんな私でもいてくれるだけでいいと思ってくれているだろうと思いました。
私が「家をちゃんと片付けて、てきぱき動ける素敵な人になりたい!!」
「私はおしゃれな素敵な人になりたいんだ!!」
「そして毎日楽しく過ごせる前向きな人になる!!」と宣言したとしても
家族にとっては、「へーーそうなんだ(半笑)」くらいにしか思わないでしょう。
そして片付いてなくても「できてないじゃーん。笑」くらいでしょう。
できないからって家族の中で私の価値はきっと変わらない。
逆にできたからってものすごく尊敬されるわけでもない。
それができても、できなくても私が私として存在しているだけ。
なりたい自分になるというのは些細なことなんだ。
できなくたっていい。 ただ私が私であればそれでいいんだ。
自分で素敵になりたいと思うのであれば頑張ってみたらいいし、
ダラダラと現状維持でいいと思うのであればそれでもいい。 どちらも私なんだと。
周りはきっとそう思ってくれている。自分自身もそう思ってあげよう。
初めて「ダメな自分を認める」というのはどういうことか、初めて腹落ちできた気がしました。

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